「自虐史観」を超克し、誇りある歴史教育を

「自虐史観」を超克し、誇りある歴史教育を

日本教師会会長 渡邊 毅

 「自虐史観」を構成する三つの歴史観

戦後日本の歴史教育において、いわゆる「自虐史観」と呼ばれる歴史認識が広く根づいてきた。これは、我が国の歴史、中でも近現代史における日本の行動を一方的に否定的に捉え、自国の過去を恥じる姿勢に基づくものである。

その構成要素には、三つの歴史観がある。

まず一つが、戦勝国によって裁かれた東京裁判に起源を持つ「東京裁判史観」である。これは、日本の戦争責任を一方的に断罪し、善悪を単純化して描く歴史観であり、戦後の占領政策とともに教育の中に深く刷り込まれた。さらに、戦後の学界や教育界に大きな影響を与えた「マルクス主義史観」もまた、古代から近現代までを階級闘争や帝国主義の歴史として解釈し、否定的に描く傾向が強かった。そして、平和的・民主主義的社会が最も優れているという視点から歴史を評価する「社会科史観」によって、「民衆」がクローズアップされる一方、各時代の特長や個人の活躍と功績が閑却されることで、子供たちは歴史を愛し尊重する精神を育む機会を失っていった。

これら「東京裁判史観」、「マルクス主義史観」、「社会科史観」が融合された自虐史観によって教科書が叙述され、歴史教育が行われていったのである。確かに、日本の過去には反省すべき側面が存在する。しかしながら、歴史教育が自己否定に偏りすぎることは、国家への誇りやアイデンティティを失わせ、健全な国民意識の形成を妨げる結果を招いてしまったのである。

多面的・多角的に歴史をとらえ包括的に学ぶ

戦後の教科書や授業では、侵略、加害、反省といったキーワードが強調される一方で、日本人が培ってきた美徳や、困難の中での忍耐、他国の発展に貢献した事実などはあまり語られてこなかった。その結果、多くの若者が「日本人としての誇り」を持てず、自国の文化や歴史に対して無関心、あるいは否定的な感情を抱くようになってしまった。これは、国際社会において活動するうえでも、大きなハンディキャップを負うことになる。なぜなら、自国の歴史に自信を持てない人間が、他国と対等に渡り合い、互いを尊重し合うことは困難だからだ。

誇りある歴史教育とは、過去の過ちを無視したり正当化したりすることではない。むしろ、事実を冷静にとらえたうえで、多面的・多角的に歴史を見る視点を養うことである。たとえば、日本がアジア諸国に与えた影響を一面的に「侵略」と片づけるのではなく、その時代の国際情勢や、植民地主義に苦しむアジアの人々の声、現地における日本の統治と近代化の功績なども包括的に学ぶべきだ。また、終戦後の奇跡的な復興や、高度経済成長を支えた国民の努力、そして世界の平和と発展に貢献してきた戦後日本の歩みも、歴史教育においては誇りを持って伝えるべき内容である。

子供の歴史観は未来の日本社会の在り方を左右する

今、国際社会は大きく揺れている。グローバル化が進む中で、各国は自らの文化的基盤を見直し、ナショナル・アイデンティティを再確認する動きを強めている。そんな時代にあって、日本の子供たちが歴史を通じて自己肯定感を高め、健全な愛国心を育むことは極めて重要だ。誇りある歴史教育は、単に過去を学ぶことにとどまらず、未来を切り拓く力を育てる営みでもある。自国を深く理解し、他国とも対等に対話できる真の国際人を育てるためには、まずは自分の国に自信を持つことが出発点となるのである。

教育は、国家百年の計である。今の子供たちがどのような歴史観を持つかは、数十年後の日本社会の在り方を左右する重要な鍵になる。だからこそ、私たちは自虐史観を見直し、誇りとバランスのある歴史教育を取り戻さなければならない。そのためには、教科書の内容や授業方法の見直しにとどまらず、教育現場全体の意識改革が求められる。歴史教育は単なる知識の伝達ではなく、子供たちが自国の歩みに学び、未来への指針を見出すための重要な礎になる。過去の出来事を多面的・多角的にとらえ、そこから教訓を得ることができれば、自己否定に陥ることなく健全な自尊心を育むことができるだろう。

次世代への最大の贈り物

そのためにはまず、教師自身が自国の歴史に対する深い理解と誇りを持たなければならない。教師が歴史の意義や魅力を語る姿勢こそが、子供たちの心に響くからだ。暗記型の授業からの脱却は言うまでもなく、対話的・体験的な学びを通じて、歴史の奥深さや多様な視点を示していくことが重要だろう。また、地域の歴史や先人たちの努力に触れることで、身近なところから「日本のよさ」を実感できる環境づくりも必要だ。こうした取り組みが積み重ねれば、子供たちは自国の歴史に誇りを持ち、他国の文化や歴史も尊重できる真の日本人へと成長していけるはずだ。

「彰往考来」という言葉があるように、過去を正しく知り、そこから未来を見据える——。それは決して容易な道のりではないが、私たち一人ひとりの意識と行動次第で、歴史教育を変えていくことができるだろう。自国の歴史に誇りを持ち、他者と真に向き合える人材を育てることこそが、次世代への最大の贈り物であり、日本の持続的な発展につながる道である。今こそ私たちは、その第一歩を踏み出す覚悟を持たなければならないのである。

((皇學館大学教育学部教授)

教師の使命とこれからの日本教師会

教師の使命とこれからの日本教師会

日本教師会会長 渡邊 毅

 これからは、予測困難な社会、時代が到来するということが言われており、教師は、そうした時代を生き抜いていける人材を育てていかなければならない。と同時に、私たち自身が、これからの社会に対応できる資質能力を備えた人間になっていくことが求められると思う。 そこで、「教師の使命とこれからの日本教師会」をテーマに、使命感を持つことの意義や教師会での活動や学びについて述べていきたいと思う。 一、日本の教師の現状まず今の日本の教師の現状はどうなのか、というところから少し確認しながら、話を進めていこう。次に列記したのは、平成十八年(二〇〇六)に中央教育審議会(以下「中教審」)の答申が指摘していた「教師の現状」である。1児童生徒に関する理解不足、教職に対する情熱・使命感の低下2 一部の教員による不祥事が依然後を絶たない3 多くの業務を抱え込み、本来の教育活動に専念できない4 教員間で支え合い、協働する力(同僚性)が希薄になっているこれらは、十七年前の「教師の現状」なので、現在の現状はどうなのか。最近のデータを見てみると、残念ながらその「教師の現状」の問題点は、まだ克服されていないように考えられる。二、自己効力感の低い日本の教師さて、これら以外にも教師の現状が分かるデータが、OECD(経済開発協力機構)が行った二〇一八年(平成三十年)の調査(四八参加国の教師を対象)で示されている。この調査結果に対して注目されるのは、文部科学省(以下「文科省」)が、日本の場合、参加国平均と比べて「学習指導に対して、高い自己効力感を持つ教員の割合が低い」「生徒指導に対して、高い自己効力感を持つ教員の割合が低い」というコメントを出していることだ。自己効力感というのは、「自分が直面している課題を克服できるだろう」という期待や自信のことをいう。その研究は、国内でも様々に行なわれているが、自己効力感の低い人は、疲労感を感じやすくなるということが報告されている。また、自己効力感はバーンアウト(燃え尽き症候群)を予防し、ワーク・エンゲイジメント(仕事に関連するポジティブで充実した心理状態)とも関連がある。三、教師の使命感とバーンアウトの関連教師の使命感は、ソーシャルサポートとレジリエンスに支えられていると、バーンアウトを抑止する。人は自分の存在、思い、気持ち、能力、魅力を周囲の人たちから認めてもらうと活力や自信が生まれ、向上心が持てるようになる。だから、ソーシャルサポートは使命感を支える要因になっているのだろう。また、使命感が挫折しそうになっても、レジリエンスが高ければ、心が容易に折れたりするということを防ぐことができるのだろう。四、過酷な環境を克服し、生き生きと仕事のできる力をもたらす使命感―フランクルと松下幸之助の事例から―使命感が強いとストレスにも打ち克つ力を人に与えることを、フランクルは身をもって証明している。ユダヤ人だったフランクルは、ナチスドイツ時代に強制収容所送りになり、そこで約三年間生き地獄のような過酷な労働生活を強いられた。解放後、フランクルを含めて生き延びた人々には、ある共通点があったことに彼は気づく。それを、彼はこう書いている。「ナチスの強制収容所で証明されたことですが、満たすべき使命が自分を待っていることを知っている人ほど、その状況に容易に耐えることができたのです」使命感は、強制収容所のような過酷な環境にも負けない、強靭な力を人に与えてくれるのだろう。もう一つ使命感について、その大切さを伝えてくれるのが、松下幸之助である。昭和七年、松下はあるきっかけで、天理市内を歩いて見てまわったことがある。生き生きと働く信者の皆奉仕活動の姿を見て、街の工場で働く職人の活動ぶりとは大きく違うことに驚く。松下は、それが使命感の有無にあるとした。「商売する者の使命感は、この世から貧をなくすことだ」と目覚めたのである。そして、松下は社員一同を集めて、「社会に貢献するという自覚の下に事業を営み、その仕事を通じて新しい発明をし、その製品をより安く、より良いものに育て上げよう。事業を起こした社会だけにとどまらず、世界に広がるような方法で、多くの人々に幸福で秩序ある、しかも豊かな生活をもたらす、進歩的な仕事へ拡大していく」と松下電器の使命を語った。私は、この中で「社会に貢献するという自覚」というところが大切だと思う。「社会のため、世のため人のため」という考えは、他人のためにプラスになるだけでなく、自分自身にもよいことがブーメランのように帰ってくるからだ。五、社会貢献は幸福感をもたらす心理学者と経済学者が行った、こんな実験がある。被験者たちにお金を与え、一日の中で使うよう指示した。A群の被験者には、自分のために使用してもらう。B群には、他者のために使用してもらった。その後、両群の心理を測定したところ、B群の方が、幸福度が有意に上昇していたことが判明している。人はもともと社会貢献を喜ぶようにできているのだろう。一時的な幸福や生活満足感を追求する人よりもエウダイモニア(アリストテレスの言う「よりよく生きる」こと)を積極的に追求する人の方が、自分の生活と人生に対する満足度が高いそうだ。この「社会貢献」という観点で、日本の教師はどんな心理的傾向があるのだろうか。先のOECD調査によれば、教職に就く動機として、日本の教師は、社会貢献すなわち向社会的な動機が国際平均より低く、功利的に考えている傾向がやや強いという結果が出ている。そして、そのせいもあるのか、仕事に対する満足度は、参加国中、日本は最下位(中学校)となっている。国際的にみて、日本の教師は、仕事に満足していない人が多いといえる。六、使命感を持つとよい仕事ができる「三人のレンガ職人」という寓話がある。三人の職人が、「何をしているんですか?」とある人から質問された。Aの職人が答える。「親方に言われて、レンガを積んでるんだよ」Bの職人が答える。「レンガを積んでるんだよ。よく稼げて家族が養えるからね」Cの職人が答える。「歴史に残る大聖堂を造っているんだ。ここで多くの人々が祝福を受けられんだぜ。素晴らしいじゃないか」この話でいうと、松下が言っていたような使命感を持っているのは、Cである。Cなら、働き甲斐を持って仕事ができるのではないだろうか。Bの動機は、功利的である。Aは、仕事に対して主体性がない。この話の最後には、十年後の三人の姿が描かれている。Aは、相変わらず文句を言いながらレンガを積んでいた。Bは、賃金は高いが危険の伴う屋根の上で仕事をしていた。そして、Cは、現場監督として多くの職人を育て、出来上がった大聖堂には彼の名前がつけられたという落ちである。使命感を持っていた職人は、仕事を行ううえでも、よい成果を挙げ人柄もよかったので、現場監督になり、大聖堂にも名前が刻まれたのではないのか。では、なぜ使命感を持つとよい仕事ができるのか。こんなふうに考えてみよう。使命感を持つと志もはっきりする。使命は、存在意義、役割 (ミッション)のことをいう。レンガ職人なら「歴史に残る大聖堂を造る」ということだ。別の言葉で言えば、後世に残る事業に加わり、世の中に貢献する、ということになるだろうか。それから志(目標)は、使命感から発したより具体的な将来の理想像(ビジョン)のことをいう。レンガ職人の話でいうなら、例えば大聖堂を完成させて、そこで多くの人が神の祝福を受け悲しみを払い、笑顔が街中にあふれ、人々が幸せな生活を送れるようにする、ということが志となるだろう。このような使命や志、目標、理想化像があると、問題を発見して課題解決していくことがしやすくなる。問題は、志がなければ明確に浮かび上がってこない。問題は、志と現状を比べて、そのギャップから浮かび上がってくる。そして、問題が何かが分かると、課題(ギャップを埋めるためにやるべきこと)が立てやすくなるのである。七、教師の使命と志以上、使命感をもつことのメリットについて述べたが、私たち教師は具体的に、その使命や志をどのように考えていけばよいのだろうか。使命は、国家・社会、学校における教師の存在意義、役割を考えたらよいのではないか。「教師は国家・社会、学校においてどのような存在か」「国家・社会、学校は教師に何を求めているのか」「教師は何のために存在するのか」といったことから、導かれてくると思う。そして、志はその使命感から発した、より具体的な将来の理想像である。「どのような教育を実現するのか」「どのような子供を育てるのか」「どんな未来(国家・社会)を実現するのか」といったことなどから導かれてくるだろう。八、これからの日本教師会「これからの日本教師会」について、私の考えることを述べておきたい。その前に、これまでの教師会を少し振り返っておこう。まず、これまで教師会が蓄積してきた「教師像」と「使命」である。それを簡潔に言うと、教師像が「専門職であるとともに文化(継承・創造)職である」ということ、使命は破邪(教育正常化)と顕正(日本にふさわしい教育)ということであったと思う。「教師は専門職である」と早くから言っていたのは、教師会である。しかし、「教師は文化職である」とは、教師会以外では聞かないことだと思う。なぜ文化職かと言えば、教師は日本の文化・伝統を継承し、学問・研究によりその創造的な活動を行うからだ。教師は研究と修養に努めなければならないが、修養に力を入れてきたのが、教師会である。教師は常に研修に努めなければならないと言われるが、他の教員団体や研究会では、修養はなおざりにされてきたのではないか。教師会は、修養に心がけていらっしゃる先生の多い団体だから、一年に一回の教研大会でも、会えば刺激が受けられるし、自分の修養はまだまだだという発憤材料にもなる。だから、これからの教師会も、この修養面に力を入れて頂きたいと思う。私は、教師会の使命である破邪顕正(けんしょう)について、次のように理解してきた。破邪は、教育正常化である。中正でない(日本にふさわしくない)教育内容・教育活動に対する批判・是正活動。そして、教職員団体の政治活動・不正不法活動に対する批判・改善・改革である。顕正は、日本にふさわしい教育を展開することである。教育制度・教育内容への提言、日本にふさわしい教育の創造と実践を行うことである。力を入れるべきは顕正の方で、破邪は、ないに越したことはない。しかし、教育というのは、国家・国民意識の分断や衰弱をねらった心理戦や思想戦に利用されるので、そうした邪悪な意図を見抜く見識を身につけなければならない。残念ながら、侵略や国家転覆をはかるために、心理戦や思想戦を企てている活動家や外国勢力がある。そして、そうした者たちは教育を利用しようとするので、教師は心理戦や思想戦の最前線に立たされているという自覚を持たなければならない。最後になるが、これからの教師会としては、次のような教育を展開して頂ければと思っている。一つ目が、会員一人ひとりが日本にふさわしい教育実践をされ、それを教研大会で発表して頂くということ。これをやっていくためには、主体的な姿勢と個別最適な学びが求められる。これは、自ら探究心を持ち自律的に学び、自分の個性に即した学びを行っていかないと実現できないことである。二つ目が、各支部での研修会である。ひと月に一度、ふた月に一度でもよいので、知識技能や見識、人格を高める学びを仲間と共に行うという機会を持って頂きたい。これをやっていくためには、継続的で協働的な学びが求められるだろう。三つめが、「日本にふさわしい教育」を提言していくということ。教師会の機関紙である『日本の教育』を復刊して、また各支部の会報紙上で、文科省に影響を与えられるような発信をしていきたい。教科書や学習指導要領が改訂されたときはもちろん、学校教育に対して建設的な意見を展開していきたい。四つ目が、「日本にふさわしくない教育」に対して厳正中立な立場で、問題が認められる教育を批判し正常化する活動である。なお、太字で示した〈主体的な姿勢と個別最適な学び〉〈継続的で協働的な学び〉は、中教審が「令和の日本型教育」を担う新たな教師の学びの姿として、示されたものである。AIの発達によって、現在の常識を覆すような変化がもたらされる可能性があると言われているが、それに教師が対応できるために示されたのが、この新たな学びである。教師会は、この新たな学びにも、しっかり対応した活動を進めていけると思う。どんな社会の変化の中でも、主体的に問題を発見して課題に取り組み、解決していける資質・能力を教師自身が持つことができるように、それをサポートしていける職能集団として教師会も発展させていけるよう努力していきたいと思う。   (皇學館大学教授)