日本教師会とは

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日本教師会の願いはこの会歌にこめられています。

   日本教師会の歌        作詞:荒川久寿男  作曲:安西愛子 1 波青く さくら咲く国 麗しき 父祖のともしび わが胸に 灯をともらせむ 日の本の 教師のちかひ かかぐるは 教へのひかり 2 はるかなる 世界のうしほ  正しきを 心のかてと  ゆたかにも 子らをはぐくめ  日の本の 教師ののぞみ   かかぐるは 学びのひかり 3 花咲かば 花のこころを  雪ふらば 雪にきたへよ いのりゆく 愛のこころは 日の本の 教師のつどひ ひらかなむ 祖国の未来    (伴奏はこちら:MP3)

組織・役員

役 員 名前 所属等
会 長 渡邊 毅 三重・(皇學館大学教授)
副会長 後藤章嘉 岐阜・岐阜県教育懇話会理事
副会長 中曽邦輔 大阪・大阪教師会会長
副会長 佐々木健 東京・(前日本教師会事務局)
副会長 佐藤健二 東京・東京教師会会長
事務局 橋本秀雄 岐阜・岐阜県教育懇話会会長
事務局 鈴木克治 京都・京都芸大付属高校校長

日本教師会の歩み

昭和34年 5月17日 東日本教職員連絡協議会(東教協)結成 昭和34年 8月15日 西日本教育団体連絡協議会(西教協)結成 昭和35年 8月21日 第1回教育研究大会(日教協主催)日教協結成声明 昭和35年11月23日 東教協と西教協が合併し日本教育協議会発足 昭和38年 2月 3日 日本教師会発足 初代会長 田中 卓 昭和38年8月8~10日 日本教師会第1回定期大会、第四回教育研究大会を岐阜市において開催 (以後、毎年8月に3日間開催。39年第5回東京都、40年第6回福岡市、41年第7回仙台市、42年第8回徳島市、43年第9回出雲市、44年第10回大阪市、45年第11回伊勢市、46年第12回水戸市、47年第13回京都市、48年第14回鹿児島市、49年第15回金沢市、50年第16回岐阜市、51年第17回静岡市、52年第18回伊勢市、53年第19回名古屋市、54年第20回大阪市) 昭和55年8月8・9日 第2代会長 稲川誠一、第21回教育研究全国大会 岐阜市ワシントンホテル (この大会を刷新大会として毎年8月に2日の日程で大会を開催、56年第22回京都市、57年第23回、58年第24回伊勢市) 昭和59年8月5・6日 第25回教育研究全国大会 鹿児島市 12月    第18回青年教師研修大会京都市、臨時教育審議会へ 「教育改革への提言」を提出 昭和60年 3月20日 稲川会長急逝し、第3代会長 朝比奈正幸が8月まで代行 8月9・10日 第26回教育研究全国大会 水戸市 第4代会長 丸田淳 (以後61年第27回大阪市、62年第28回名古屋市、63年第29回、平成元年第30回神戸市、2年第31回岐阜市、3年第32回京都市、4年第33回鹿児島市、5年第34回大阪市、6年第35回名古屋市、7年第36回東京、8年第37回岐阜市9年第38回水戸市、10年第39回神戸市) 平成11年8月21・22日 第40回教育研究全国大会 大阪市 12月25・26日 第5回冬季研修会 大阪市 平成12年8月22・23日 第41回教育研究全国大会 東京都(以後、東京継続) 平成13年8月19・20日 第42回教育研究全国大会 第5代会長 慶野義雄 (23年度東は日本大震災で休止。以後も東京で開催) 平成16年8月 23日 第45回教育研究全国大会「教育基本法改正案」発表 平成28年8月5・6日 第56回教育研究全国大会 岐阜市 9月「次期学習指導要領への提言」を文科省へ提出             平成29年8月 第57回教育研究全国大会 大阪市 第6代会長 若井勲夫

参考資料】「日本教師会の目指す教育正常化運動」佐藤健二 (『記念誌 第2集 これからの学校教育の改善に資する提言ーその理念と展望』H25,3,15日本教育連合会発行より) 【会長発表】田中卓先生の教師論 ー日本教師会初代会長の遺訓としてー 日本教師会会長 京都産業大学名誉教授 若井勲夫 平成三十年十一月二十四日、元皇學館大学学長の田中卓先生が九十五歳を前にして逝去された。強靱な生命力と精神力で一筋の道を貫かれた生涯を振返ると、三つの活動の面が見られる。それは歴史家、教育家、思想家としての顔である。それぞれに全力投球し、秀でた業績を挙げ、深く広い影響を与えられた。ここでは教育家に絞り、偲び草だけでなく、後学への指針となる先生の教育・教師の在り方に関する考えを祖述する。 日本教師会ー破邪より顕彰を 昭和三十八年二月、教育正常化以上に、我が国の歴史・伝統にふさわしい教育の推進を目指して日本教師会が結成され、先生は初代会長に就任された(三十九歳)。本会には前身があり、同三十四年十一月、日本教育協議会が発足し、先生は指導委員長を務められていた。これが発展的に職能・研修団体として飛躍を期したのである。四十一年に組織替えで理事長制となり(会長は空席)、先生は常任顧問に就かれた。その後、四十五年六月に会長に再任、五十五年五月(五十六歳)まで、前後十五年余重職を担われた。それも本務の皇學館大学教授として教育研究の傍ら、会の統括、執筆、講演と東奔西走されたのである。 そこで本稿では先生の挨拶や講演の中から教師論に関わる重要な論点を取上げ(主な出典は機関紙「日本の教育」)、要約整理して示す。 教師は文化職 ・教師には三つの性格、即ち勤労者、専門職、聖職があり、この聖職を新しく「文化職」と造語し、提唱する。教師は裁判官・弁護士・医師と専門職としては似ているが、本質において異なる。これらはマイナス面の出来事の発生に対処する立場で、いわば受身の仕事である。しかし、教師は子弟を対象とし、能動的、恒常的、福祉的であり、プラス面を持つ。教職は人間が教養として求める知識の付与、心身の錬磨、人格の形成を目指して、文化の建設に関わる。 教師は教え子を持つ ○ 教師は子供を教えている。世に多くの団体があるが、仲間や同志をつくることが中心であり、教え子を持っていない。我々は教え子を持つ。仮に十年経てば。子供は十年分、成長する。我々は十年かかって教育するのである。組織の拡大はなかなか難しい。そこで、同志の獲得とともに、教え子に全力を挙げる。教師会は息の長い運動であり、教育はもともとそういうものなのである。 ○ 教師が文化職という意味では子供達に対する奉仕活動をしていくという理念で進んでいるわけで、「使命」という考え方はここから導き出される。教師にはボランティアとしての活動が本来のものである。ソクラテスやプラトンや孔子、吉田松陰にしても、そういう面が特筆されるのは、ここに教師の本質があるからであろう。この点がいわゆる教育専門職という性格を曖昧にする一面があるとともに、また、教師そのものの価値をより高尚たらしめる所以でもある。 ○ 教師の決意は教育に対する愛情に裏付けられ、また、愛情に貫かれたものでなければならない。 教師の自己教育が根本 ○ 教育の眼目は人間としていかに生き、いかに歩むべきかという人間の道、道徳を明らかにして、その実践を教えることにある。教師として自ら求め、教師たるの道、教師道を明らかに実践する。我々は自らの道、自らの目標に向かって常に自己を高めていくようりほかにない。 ○ 教師の在り方は教師自らの研修、研鑽を経て、自覚さるべきものであり、与えられるものではなく、学び取るべきものである。教師はまず自らを教育することが重要である。 ○ 教師が専門職であることは単に必須条件であて、これに甘んじてはならない。教師は知識と授業法の専門家にとどまらず、あくまでも師表としての人格、見識、愛情を自ら涵養し、生徒・学生を育成せねばならない。それこそが教育の原点である。 〈補記〉 以上の二点は互いに関わり合って、あるべき教師像を示している。これはまた私ども教師会員が教師として生きる根本的な精神と姿勢を養ってきた。教師は自ら律し、鍛え、自己形成に努めねばならない。その師の生き方が弟子に反映し、影響していく。師は弟子に強制するのではなく、弟子の生き方を助けて、導き、開いていき、その成長を見守り、待つのである。師弟は共に道を学び、求める同学、同友といえる。先生はこの心構えで長らく若者に向い、門下生は今もそれぞれ学界、教育界、神社界を中心に活躍しているのである。(H30,12,23)