河村幹雄博士は大正から昭和の初期にかけて、九州帝国大学工学部に勤務、地質学講座担当教授、また工学部長に就任され、昭和六年末四十六歳の若さでその高貴な生涯を終えられた。憂国の心篤く、当時の教育の悪弊を改革せねばと、「教育の外何物もなし」の確信を以て講演著述を通してその至情を世に訴えられた。
河村幹雄博士は大正から昭和の初期にかけて、九州帝国大学工学部に勤務、地質学講座担当教授、また工学部長に就任され、昭和六年末四十六歳の若さでその高貴な生涯を終えられた。憂国の心篤く、当時の教育の悪弊を改革せねばと、「教育の外何物もなし」の確信を以て講演著述を通してその至情を世に訴えられた。